吸血鬼4

夕鈴はベッドに入り横になると、改めて先程のハンカチを広げ、まじまじと見つめた。
淡いピンク色のハンカチは、所々に兎と花のイラストが描かれ、いかにも女の子用に見える。
そして隅にある自分の名前は、今は亡き母の懐かしい筆跡で書かれていた。
見覚えはない、いや忘れているだけなのだろうが、おそらくこれは自分の物だったのだろうと夕鈴は思った。
「――いつ、会ったんだろう」
夕鈴は元通りに畳んだハンカチを枕の横に置くと、茫然とただ天井を見るともなく眺めていた。



今日はいつにも増してぼんやりしていた、と明玉にからかわれながら学校も終了し、夕鈴はいつもの様にバイトに向かった。
徐々に辺りは薄暗くなり、夜の気配が忍び寄ってくる。
夕鈴は背筋に何か冷たいものを感じ振り向くが、誰もいない。
――まさか今日も来たりしないわよね……
嫌な予感を抱えながらバイト先のコンビニに入った夕鈴は、近くのビルの屋上から自分を見つめる二つの人影に気付かなかった。
「――やはりあの娘ですか」
「あぁ、可憐だろう?」
「可憐かどうかはともかく『花嫁』についての説明はされたのですか?」
「申し込んだが断られた」
「――でしょうね」
昨夜、夕鈴との会話で黎翔が李順と呼んだ男性は、眼鏡を指で押し上げ軽い溜息を吐いた。
「すぐに了承する人間がいるとは思えませんね」
「いつか受け入れさせる」
ニヤリと笑った黎翔がビルの屋上からヒラリと舞い降りると、その姿は途中で霧がはれる様に消えた。
「いつか、だなんて悠長な事を言っている時間は無いはずですよ」
黎翔に聞こえたのか否か李順には分からなかったが、その呟きは風にさらわれ消えていった。


「夕鈴ちゃん、悪いんだけど今日も遅くまでお願い出来るかな?」
商品の補充をしていた夕鈴に、店長が困った顔で話し掛けてきた。
「……私は構いませんけど」
「この前事故起こした彼がね、今日になったらムチ打ちの症状が出ちゃったらしくて、休ませてくださいって連絡が来たんだよ」
「はぁ……大変ですね」
帰りが遅くなると余計にまた黎翔と会う様な気がした夕鈴は、どうやったら会わずに済むかとその事で頭がいっぱいになり、つい店長に気の抜けた返事をしてしまった。
「夕鈴ちゃん本当に大丈夫?都合が悪いなら言ってね」
「え?あ、だ、大丈夫です。すいません、ちょっと考え事してて」
苦笑しながら言う夕鈴に、店長は
「そう?じゃあお願いするね」
と言いながら、接客をするためにレジへと戻った。
夕鈴も再び商品の補充をしながら、今日はあの人達に会いませんようにと心の中で祈った。


バイトが終わり店外へ出た夕鈴は、つい辺りをキョロキョロと見回し、黒いマント姿の男達がいないかどうか確認してしまった。
手には今夜も店長が持たせてくれた、お詫びのスイーツが入ったビニール袋を提げ、夕鈴は夜道を急ぎ足で自宅へと向かう。
――この角を曲がるのが何だか怖いわ……
曲がり角の手前で足を止めた夕鈴は、そっと顔だけ出してその先の道の様子を窺った。
今夜は夕鈴が心配していた様な人影は無かった。
そう、人影は。
代わりに、とでも言うように、今夜現れたのは大きな黒い犬だった。
――まさか野良犬?襲ってきたりしないわよね……?
耳をピクリと動かした犬は夕鈴をじっと見た後、尻尾をブンブンと振り始めた。
そして軽快な足取りで夕鈴に近付くと、きちんとお座りをして夕鈴を見上げた。
「うわ……この犬、おっきい」
お座りをしていても夕鈴の胸の辺りまで高さのあるその犬は、まるで夕鈴を待っていたと言わんばかりに嬉しそうにしている。
「もしかして、これが目当て?」
夕鈴がスイーツの入ったビニール袋を持ち上げてみせると、犬はそんな物には興味が無いと言いたげに夕鈴を見ている。
「お腹は空いてないのかな?」
夕鈴が歩き始めると、その犬もすっくと立ち上がり、夕鈴に添って歩き始めた。
「……送ってくれるの?なんてね」
クスッと笑った夕鈴に、犬はまるで返事をするかの様に、ふさふさの尻尾を夕鈴の足にトンとぶつけた。
夕鈴の歩く速度に合わせ、犬はぴったりと寄り添い歩いている。
「ちゃんと訓練されてるみたい……どこかの飼い犬かしら?首輪はしていないみたいだけど」
夕鈴が歩きながら犬の頭を撫でると、犬は夕鈴を見上げ目を細めた。
「……赤い目?珍しいわね」
どことなくシベリアンハスキーに似た精悍な顔付きの犬は、相変わらず軽い足取りで歩いている。
途中で幾人かの通行人とすれ違ったが、皆一様にギョッとした顔で犬を凝視していた。
「ボディガードみたいね」
夕鈴が笑いながら言った言葉に、犬は小さく鼻をならした。

「私の家、ここなんだけど」
自宅に着いた夕鈴は、犬をどうするべきかと思いながら話し掛けてみた。
すると夕鈴の言葉が分かったかの様に、犬は夕鈴の手をペロリと舐めた後、闇に向かって走り出した。
真っ黒な犬の体はすぐに見えなくなり、夕鈴はその後ろ姿を見送りながら、不思議な体験をしたなと犬に舐められた手を見つめた。



SNS初出2014年4月27日
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吸血鬼3

少し長くなりそうなので、カテゴリー『吸血鬼』作りました(笑)



「な、何なのあの人……!!」
夕鈴は玄関の鍵を閉め、荒い息を吐きながら言った。
「お帰り姉さん……どうしたの?そんなに息を切らせて」
出迎えてくれた弟の青慎が、夕鈴に不思議そうに尋ねる。
「ちょ、ちょっと、変な人がいて」
「え!?不審者?」
「……なのかな?」
首を傾げる夕鈴を見て、青慎は余計に不思議そうな顔をした。
「警察に通報……する?」
「ううん、私の気のせいかもしれないから」
慌てる夕鈴に、そう?と青慎は小さく言ったが、その顔は心配そうな表情のままだった。
――だって通報したって捕まらないと思う……
第一、警察に吸血鬼と会いましたと言って信じてもらえるだろうか?
信じてもらえる訳がないと結論付けた夕鈴は、靴を脱ぐと力なく家に上がった。


入浴を済ませた夕鈴は、まだ湿っている髪をタオルで拭きながら、自分のベッドに腰掛けた。
手を止め顔を上げると、机の上の赤い薔薇が見える。
捨てるのも勿体ないからと一輪挿しに活けて飾った夕鈴だったが、堂々と咲き誇る大輪の薔薇はシンプルな自分の部屋には不釣り合いな気がした。
「……本当に綺麗な薔薇よね」
「気に入った?」
ビクッと飛び上がる程に驚いた夕鈴が声のした方を見ると、薄い笑みを浮かべた黎翔が窓の前に立っていた。
「どっ、どこから入ったの!?」
「どこからでも」
ニヤリと笑った黎翔は夕鈴に一歩近付いた。
「――来ないで」
黎翔から目を逸らさずに、夕鈴はベッドの脇に置いてあるビニール袋から、十字架の付いたネックレスを取り出した。
「これ、怖いんでしょう!?」
「十字架ねぇ」
クスクス笑いながら、黎翔はもう一歩近付く。
そして腕を伸ばすと、夕鈴の震える手から十字架を抜き取った。
「あっ!」
「ふぅん……可愛いアクセサリーだね」
「何で……!?」
黎翔は口角を上げ、夕鈴の首にそのネックレスをかけると、十字架に口付けた。
「君が熱心な信者だったら、僕はこの十字架に近付けない。物に込められた思い……念、と言った方が良いかな?それが苦手でね」
「じゃ、じゃあこれは?」
続いて夕鈴がビニール袋から出したニンニクを見て、黎翔は思わず笑い出した。
「デートの前に食べられたら、流石に嫌かもね」
カッと頬を赤らめた夕鈴の髪を、黎翔は指先で楽しそうに絡める。
夕鈴は真正面から黎翔の赤い瞳を見つめると、意を決した様に口を開いた。
「――今日、あなたの仲間らしき人に会いました」
「仲間……?」
「黒いマントを羽織ってて眼鏡をかけてる……あ、でも目は赤くなくて」
黎翔の指先がぴたりと動きを止めた。
「李順、か?早いな」
黎翔はすっと目を細めると、夕鈴の前に跪きその手をとった。
そして夕鈴の手の甲に唇をつけると、穏やかな声で囁く様に言った。
「どうか、私の花嫁になってくれないか?」
「――はぁ?」
夕鈴は自分の手を黎翔の手から引き抜くと、勢いよく立ち上がった。
「変な事言ってないで、さっさと出てってください!!」
「――私は真剣だが」
いつの間にか黎翔の顔から笑みが消え、夕鈴を見つめる瞳の色は深みと鮮やかさを増し、昨夜よりも紅く見えた。
「花嫁になると言ってくれ」
「……い、言うはずない……でしょ」
やっとの思いで絞りだすように声を出した夕鈴は、キッと黎翔を睨み付けた。
「だいたい何で『闇の夜に』とか言っておいて昨日の今日で出てくるの!?」
「――君達人間にとって、満月以外は闇の様なものだろう?」
「え?」
「だからあんなにも街を明るく、昼間の様に照らしているのだろう?……おかげで私達の様な、闇の生き物は住みにくくなったが」
微かに笑みを浮かべる黎翔はどこか儚く見え、怒っていたはずの夕鈴も気が削がれてしまった。
「――今日、私が会った人は……?」
「多分、李順だろう。私のお目付け役だ」
「お目付け役?」
「あぁ、私は近いうちに、永遠の伴侶となる花嫁を決めなければならない。それを見届ける役目だ」
花嫁、という言葉を聞き、夕鈴の胸がドキンと高鳴る。
「は、花嫁って誰でも良いんですか?」
「――え?まさか。私が望んだのは君だけだ」
「何で私、なんですか?」
「――君は覚えていないだろうが、私達は君が幼い時に一度会っているんだよ」
黎翔は立ち上がると、夕鈴の頬を掌でそっと包んだ。
「その時に決めたんだ。君を、花嫁にするとね」
「……小さい頃に……会った?」
夕鈴は必死に幼い頃の記憶を辿ろうとするが、どうにも思い当たる節がなかった。
黎翔は、必死に思い出そうとしている夕鈴にクスリと笑み静かに言った。
「無理に思い出す事はないよ。君は本当に小さかったから、覚えていなくて当たり前だ」
そして夕鈴の手をとり、掌を上に向けさせた黎翔は、そこに古ぼけた一枚のハンカチを乗せて言った。
「――確かに、返したよ」
夕鈴がそのハンカチを広げてみると、隅にマジックで『ゆうりん』と書いてある。
「え?これって」
顔を上げた夕鈴の前には既に黎翔の姿はなく、いつも通りの自分の部屋が目に映るだけだった。



SNS初出2014年4月25日

吸血鬼2

聞き慣れた目覚まし時計の音で目を覚ました夕鈴は、腕を伸ばしその音を止めると、重たいまぶたをこじ開け時計を見た。
「んー…もう朝?」
いつもは寝付きの良い夕鈴だが、昨夜は色々と考えながらベッドに入ったせいか、なかなか眠る事が出来なかった。
昨夜の事は全て夢だったと思いたい気持ちを裏切るかのように、机の上の一輪挿しに生けられた赤い薔薇が目に入る。
「やっぱり夢じゃなかった…」


学校へ行くために夕鈴がバス停に立っていると、親友の明玉が走って来るのが見えた。
「夕鈴!おはよー!」
「おはよう明玉」
間に合ったー、と息を切らしながら言う明玉が、ふと夕鈴の顔を見つめた。
「あれ?珍しい…夕鈴目の下に隈が出来てるよ」
「え?」
「眠れなかったの?何か悩み事?」
「ううん…昨日バイト終わるのが遅くなっちゃって、その後の宿題にも手間取っちゃったから」
明玉は夕鈴の顔をじっと見た後、ふーんと呟くと
「ま、何かあったら遠慮無く相談してよ」
と軽い口調で言った。
「うん、ありがとう」
笑って答えながらも、昨夜の事はとても相談出来る内容じゃないわね、と夕鈴は思っていた。

学校での休み時間、夕鈴は携帯を出し吸血鬼について検索してみた。
画面には胡散臭いサイトやコスプレの画像がずらずらと並ぶ。
「弱点…日光、ニンニク、銀……種?漁網!?」
「夕鈴、なに真剣な顔してんの?」
明玉に携帯をひょいっと覗かれた夕鈴は、慌てて画面を伏せる。
「ん、ちょっと調べ物」
「ふーん…?」
「――ね、明玉…吸血鬼っていると思う?」
「……はぁ!?」
明玉は目を丸くした後、けらけらと笑い出した。
「一体どうしちゃったの夕鈴?今ごろ中二病?」
「ち、違うのっあの、昨夜…そう、夢で見てねっ」
「その夢のせいで隈作ったって訳?」
「う……うん、リアルな夢で…」
明玉は笑いすぎて浮かんだ涙を指先で拭いながら、夕鈴にきっぱりと言った。
「夕鈴、いくらリアルでも夢は夢。吸血鬼なんている訳ないんだから!」
「――うん」
「でもどうしても気になるなら、枕元に十字架でも置いておけば?」
そうね、と夕鈴は小さく答えると、自分を気遣ってくれた明玉にニコッと笑った。


「お先に失礼しまーす」
コンビニでのバイトを終えた夕鈴は、ビニール袋を手に提げ、歩きながら何気なく夜空を見上げた。
昨夜より少しふっくらとした月が目に映る。
黎翔と名乗ったあの吸血鬼は、最後に何と言っていただろうかと思い返す。
『また闇の夜に――』
闇という事は新月だろうか、と夕鈴が思いながら道の角を曲がった時
「――うそ」
昨夜、黎翔が立っていた場所にまた誰かが立っているのが見えた。
夕鈴は昨夜もそうした様に道の反対側へ渡り、その人物を気にしながらも足を速めた。
見ない様にしようと思いつつも、怖いもの見たさからか、夕鈴は追い抜きざまにその人物の顔を見てしまった。
――――違う。
心のどこかで黎翔かもと思っていた夕鈴は、見知らぬ男性と目を合わせてしまった事が恥ずかしくなり、走り出そうとした。
「――お待ちください」
静かに声をかけられ、夕鈴は足を止めた。
「お嬢さん、昨夜この辺りで私と同じような服を着た男性を見かけませんでしたか?」
夕鈴が振り返りよく見ると、その人物も黒く長いマントを身にまとっていた。
「……あなたも吸血鬼、ですか…?」
「――ほう?」
男性のかけている眼鏡がキラリと光った気がした瞬間、まるで煙の様にその姿がかき消えた。
驚いた夕鈴が一歩後ろへ後退ると、背中が何かに当たった。
「――少しお話を聞かせていただけますか?」
肩を掴まれ振り向くと、そこには先ほど消えた男性が立っていた。
「ひっ!」
「お静かに。昨夜あなたが会った男性は、あなたに何を言いましたか?」
「な、名前と…吸血鬼だって……」
足の震えが止まらない夕鈴は、それでも何とか逃げ出せないかと、その機会をうかがっていた。
夕鈴の答えを聞いた男性は、無言で夕鈴の髪を持ち上げ首筋を見た。
「血は吸われていない様ですね」
「っ…やっ!」
男性の手を勢いよく振り払い、夕鈴は一目散に走り出す。
その後ろ姿を見ながら、男性は眉間にシワを寄せ、眼鏡を指で押し上げた。
「――厄介な事になりそうですね」



SNS初出2014年4月22日

吸血鬼1

題名通り黎翔さんが吸血鬼ですので、合わない方は回れ右でお願いしますm(__)m



今日も夜のとばりが静かに降りる。
黒いクレヨンで塗り潰した画用紙に、釘で引っ掻き傷を付けた様な細い新月があるだけの暗い夜空とは対照的に、街がまだ眠るのは早いとばかりに明るい輝きを放つ時間、バイト帰りの夕鈴は小走りに帰路を急いでいた。
――すっかり遅くなっちゃった。
コンビニでバイトをしている夕鈴が、いつもの時間にあがろうとした時にかかってきた一本の電話。
夕鈴の後の時間帯に働いている男性が、店へ向かう途中に事故を起こし遅れるという。
「そんな訳で夕鈴ちゃん、もう少し居てくれないかな?」
夕鈴が帰ってしまうと店長一人になってしまう。
一人シフトは本社からきつく禁じられている、と頼みこむ店長に、夕鈴は苦笑しながらも了承した。

――青慎もう寝ちゃったかしら?
店長からお詫びにと渡されたスイーツの入った袋を手に、夕鈴は暗い夜道を急いだ。
駅前はまだ明るく賑やかなものの、夕鈴の家がある下町へ向かうにしたがって、辺りは暗さを増し静かになっていく。

夕鈴が曲がり角を曲がった時、前方に人影が見えた。
後ろ姿だが、長身のそれはどうやら男性のようだ。
夕鈴は少し緊張しながらも、道の反対側へ足を進めその人物を追い抜こうとした。
追い抜きざまに男性の姿を横目でちらりと見た夕鈴は、思わず息を飲んだ。
何かの仮装だろうか、黒く長いマントを身に着け手には一輪の赤い薔薇。
そして静かに自分を見つめる瞳と目が合ってしまった夕鈴は、その瞳が薔薇と同じ色をしている事に気付いた。
――カラコン?て言うか何かのコスプレ?こんな夜中に?
今まで以上に早足で、歩くというよりは走りながらそんな事を考えていた夕鈴が、自分の肩越しに後ろを振り返ると誰もいなかった。
道を曲がったのだろうと思いホッと溜息を吐いた時、夕鈴に一つの疑問が湧いた。
――街灯の下でもないのに、こんな暗い道で何で瞳の色なんか分かったの?
思わず足を止め、もう一度振り返った夕鈴の目に赤い物が映った。
「――お嬢さん、こんな暗い夜にどちらへ?」
それが先程の男性が持っていた薔薇だと夕鈴が理解した時には、すでにその持ち主の顔が夕鈴の至近距離にあった。
「きゃ……」
叫びそうになった夕鈴の口を、男性は大きな手で覆った。
「――静かに。君、後を付けられているよ」
誰に!?と夕鈴が聞き返そうとすると、男性は夕鈴を軽々と抱き上げ、跳んだ。
「う、嘘……」
男性に抱きかかえられた夕鈴が今いるのは、三階建ての建物の屋上だった。
「いい子だから静かに――あぁほら、あの男に見覚えは?」
そっと夕鈴を降ろした男性は、先程まで自分達がいた暗い道路を見下ろし指差した。
見ると辺りをキョロキョロと見回しながら、サラリーマン風の一人の男が歩いている。
「――父さん!?」
夕鈴の言葉に、男性からクッと笑い声が漏れた。
「なるほど、娘を見守っている父親だったか」
「あ、あなた何者!?」
キッと睨み付けてくる夕鈴に艶やかな笑みを返した男性は、西洋の貴族のように優雅に腰を屈め礼を執った。
「僕は黎翔――吸血鬼だよ」
「……は?」
黎翔は夕鈴の手を取り、その甲に口付ける。
「君の血はとても甘そうだ」
「な、何を……」
気丈に振る舞おうとしても、自分の意志とは裏腹に夕鈴の足が震える。
本能が危険を知らせている。
だが夕鈴は自分に真っ直ぐに向けられた、その紅い瞳から目を逸らせなかった。
「――安心していいよ。今すぐ血を吸いたい訳じゃない」
黎翔はそう言いながら、夕鈴を再び抱き上げると屋上から飛び降りた。
悲鳴を上げる事も出来ずに夕鈴がぎゅっと目を瞑ると、全身がふわりと浮遊感に包まれた。
恐る恐る目を開けてみると、黎翔が自分を抱えたまま連なる屋根の上を走っているのが分かった。
だが奇妙な事に黎翔の足音は全くしない。
静かな夜の闇の中、黎翔の羽織るマントの翻る音だけが、かすかに夕鈴の耳に聞こえた。
「ほ……本当に吸血鬼、なの?」
夕鈴の呟く様な問いに、黎翔は目を細める。
そして、まるで壊れ物を扱うかの様にそっと降ろされたそこは、夕鈴の家の前だった。
「え?何で家の場所を?」
夕鈴が振り返ると、黎翔はまた優雅にお辞儀をし一言だけ告げた。
「また闇の夜に――」
その台詞が言い終わらないうちに、黎翔の姿は闇の中に溶けていった。
思わず夕鈴が黎翔の立っていたあたりに駆け寄るが、どこにもその姿はなかった。

「お、夕鈴。足速いなぁ」
呆然としている夕鈴に、父が呑気な調子で話しかけながらやって来た。
「駅前で夕鈴を見かけてな、声をかけようとしたんだが追い付けない。しかも角を曲がったらもう居なくてびっくりしたよ」
「うん、私も…びっくりした…」
玄関の鍵を開ける父の背中に呟きながら、ふと手に持ったままのビニール袋に視線を落とした。
そこにはバイト先の店長がくれたスイーツと共に、黎翔が持っていたあの赤い薔薇がいつの間にか入れられていた。

黎翔が夢や幻ではなかった事を証明するかの様に。



SNS初出2014年4月19日
プロフィール

*へもへも*

Author:*へもへも*
『狼陛下の花嫁』の二次創作小説がメインです。

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